和菓子の歴史と魅力を解説!日本文化を彩る甘味の秘密

和菓子の歴史と魅力を解説!日本文化を彩る甘味の秘密
2024年12月26日 白玉椿
In 和菓子/スイーツ

和菓子は、日本の四季や行事と共に育まれた伝統的な甘味です。その歴史は飛鳥時代に始まり、茶道や江戸時代の商人文化の影響を受けながら発展してきました。本記事では、和菓子の起源から現在に至るまでの進化の過程を解説します。また、日本文化における和菓子の役割や、見た目にも美しいその魅力を詳しくご紹介。和菓子の奥深い世界を知ることで、日本の食文化の豊かさを再発見しましょう!

 

  • 菓子とは~菓子のルーツ~
  • 唐菓子の登場と、日本独自の菓子の誕生
  • 鎌倉時代から室町時代まで~茶道と和菓子~
  • 安土桃山時代~南蛮菓子の登場~
  • 江戸時代~菓子文化が江戸の街にも、そして成熟期へ

 

1. 菓子とは~菓子のルーツ~

菓子とは果物や木の実のことを指す言葉でした。古い文献では、奈良時代に官設の市場で菓子を売る店があったことが確認されています。この菓子というのも、今でいう果物。揚梅子(やまもも)、柑子(こうじ。みかんのことだが、この時はまだ原始的なもの)が売られていました。

伝説では、第11代垂仁天皇の命により、田道間守(たじまもり)という人物が、常世の国と呼ばれる理想郷から「非時香菓(ときじくのかくこのみ)」と呼ばれる木の実を持ち帰ったといわれています。

この木の実とは、橘の実のことです。田道間守は、兵庫県豊岡市の中嶋神社に、菓子の祖神として祀られています。

一方、果物などとは別の、もう一つの菓子のルーツと考えられるのは、米や粟などの穀物を加工した、餅や団子の類のものです。縄文時代晩期には稲作が始まっていたことから、持ち運びや保存のために、穀物を火にかけ、ついて丸めるなどの工夫は自然に行われていたと考えられます。

人々は食料を長期保存する知恵を持っていました。木の実を天日干しにしたり、石臼や石槌などの道具を使って粉末状にしたりして保管していたのです。当時は農耕が始まっていたものの、まだ食料が十分ではない時代でした。そのため、椚(くぬぎ)や楢(なら)のドングリも貴重な食料源でしたが、強いアクを含んでいたため、そのまま食べることはできませんでした。

このドングリを粉砕して水にさらし、アクを抜いた後、丸めて加熱調理する方法を編み出しました。これが、今日私たちが親しんでいる団子の起源とされています。そして、この食文化の発展から、日本最古の加工食品と言われる「餅」が生まれることになります。
934年に編纂された『倭名類聚抄』には、餅を「毛知比」や「持ち飯」と表記する記述が残されています。当時、餅の原料となる米は極めて貴重な食材でした。そのため、餅は神聖な食べ物として扱われていたことが『豊後風土記』などの古文書からも読み取ることができます。

 

2. 奈良時代から平安時代まで~唐菓子の登場と、日本独自の菓子の誕生~

そのような、素朴な食べ物であった日本の菓子に、大きな変化が見られるのが奈良時代です。

日本の和菓子の歴史に大きな転換点をもたらしたのが、遣唐使の存在でした。630年から894年までの約260年間に、19回にわたって派遣された遣唐使は、様々な文物とともに「唐菓子(からくだもの)」を日本へ伝えました。

これらの唐菓子は、独特な名称で呼ばれていました。梅枝(ばいし)、桃子(とうし)、餲餬(かっこ)、桂心(けいしん)、黏臍(てんせい)、饆饠(ひちら)、鎚子(ついし)、団喜(だんき)など、それぞれが特徴的な形状を持っていました。
材料には米、麦、大豆、小豆などが使用され、こねて成形したものや油で揚げたものなど、その調理法も多岐にわたりました。これらの菓子は単なる食べ物としてだけでなく、祭祀における神聖な供え物としても重宝されました。

このように遣唐使によってもたらされた唐菓子の製法や味わいは、後の日本の和菓子文化の発展に多大な影響を及ぼしたとされています。現代の和菓子にも、その影響を見ることができるのです。

唐菓子は、米や小麦といった穀物を粉にし、数段階の調理をほどこします。調理方法は、蒸す、焼く、ゆでる、揚げるとさまざま。日本で食べられていた簡単な餅や団子が、限りなく自然に近いものであったのに対し、唐菓子は、粉をひき、生地にし、様々な形に整え、火を通すという具合に、人の手により生み出される食べ物でした。

現在、唐菓子が見られるのは、一部の寺社での供え物・捧げ物です。しかし、一般に口にすることのできる、唐菓子を元にしたお菓子がわずかながら存在します。京都の亀屋清永の「清浄歓喜団(せいじょうかんきだん)」、奈良の萬々堂通則の「ぶと饅頭」などがあげられます。

そして、日本特有のお菓子も生まれます。当時は砂糖は国内では作られておらず、輸入され、貴重な薬とされていました。なお、日本で砂糖が作られるようになるのは、まだ遠い先の、江戸時代になってからです。平安時代に甘味をつけるために使われていたのは甘葛(あまずら)、野山に自生する「蔓甘葛(つるあまずら)」の蔓からとれる樹液です。枕草子には、氷に甘葛をかけて食べる、かき氷のようなものが登場します。

また、源氏物語に登場し、日本で最初の和菓子と呼ばれることもある椿餅も、甘葛で甘みをつけたお菓子でした。

『源氏物語図』(京都国立博物館所蔵)

ちなみに、当時の椿餅は現在の椿餅に似たものですが、餡は入っていなかったと考えられています。当時の文献が、椿餅を唐菓子とは別の種類のお菓子として記していることから、この頃から日本人が、唐菓子と日本のお菓子、すなわち和菓子を分けて考えていたことがうかがえます。なお、甘葛やそれを使ったお菓子を口にできるのは、まだ貴族のみ、とても高価なものでした。

 

3. 鎌倉時代から室町時代まで~茶道と和菓子~

鎌倉時代に入ると、またもや中国からもたらされた食べ物が日本の菓子に影響を与えます。それは、禅宗の点心、寺院で朝食と夕食の間にとる「軽食」でした。

当時の点心は、饅頭類、麺類、羹(あつもの)と呼ばれる汁物類が中心でした。このうちの羹には、羊羹も含まれます。本来はその文字の通り、羊の肉が入った汁物でしたが、肉食を禁じられた僧のために、形だけ羊の肉や肝に似せ、小麦粉や葛粉などを練り合わせて蒸した、全く別の食べ物が生まれたと考えられています。

饅頭には、現在のおやきのように野菜を入れたものと、砂糖を使った甘いものが見られました。また、葛切や葛饅頭の原形と思われる点心も見受けられます。このように、当時の点心には、現在では軽食とされるもの、菓子とされるものの双方が含まれますが、日本の菓子に大きな影響を与えたことは事実です。

点心の広がりと併せて、栄西が広めた喫茶の文化も、菓子の発展に大きくかかわっています。茶を楽しむ際に「茶の子」として串柿や胡桃などの果実・木の実類、そして点心が供されました。

室町時代の茶席では、正式な食事の合間に「点心」と呼ばれる軽食が供されていました。その中でも特徴的だったのが「羹(あつもの)」という温かい汁物です。この羹には実に48種類もの種類があり、猪羹、白魚羹、芋羹、鶏鮮羹など、具材によって様々な名称で呼ばれていました。

そのなかの一つに「羊羹」がありました。本来、羊羹は羊肉を使用した汁物でしたが、当時の日本では獣肉を食べる習慣がありませんでした。そこで創意工夫が生まれ、羊肉の代わりに麦や小豆の粉を練って羊肉に似せた具材を作り出したのです。
やがて、この羊肉の代用品として作られた具材が、汁物から独立して一つの菓子として確立しました。これが現代の羊羹の原型となる「蒸羊羹」です。その後、寛政年間(1800年頃)に寒天が発見されたことで、私たちがよく知る煉羊羹が誕生することになります。
当時の茶席では、他にも「打栗」「煎餅」「栗の粉餅」「フノヤキ」といった様々な菓子が供されていました。これらの茶席菓子は、日本独自の和菓子文化を築き上げる重要な礎となったのです。

 

4. 安土桃山時代~南蛮菓子の登場~

狩野孝信筆『唐船・南蛮船図屏風』(九州国立博物館所蔵)

南蛮貿易と呼ばれる、スペインやポルトガルとの交流が始まると、日本の菓子は南蛮菓子に影響を受け、これらを取り込んでいくことになります。当時の日本の菓子は、甘いものとは限らず、また、甘いものも控えめな甘さのものがほとんどでした。そのような中にあって、南蛮菓子は、砂糖を贅沢に使った甘みの強いものが多く、当時の日本人はその甘さに魅了されていったのでしょう。

また、当時の日本では、宗教上の考えから、卵はほとんど食べられていませんでしたが、カステラに代表される卵を使った南蛮菓子により、日本でも卵がよく食べられるようになったと考えられています。伝えられた南蛮菓子は、カステイラ(カステラ)、カルメラ、ボーロ、金平糖などです。いずれも、現代の私たちの感覚では和菓子といえるものですね。

なお、これらの南蛮菓子は、キリスト教布教のために、権力者に贈られていました。海外からの珍しい食べ物であり、広く多くの人が口にするのはまだ先の話です。

 

5. 江戸時代~菓子文化が江戸の街にも、そして成熟期へ~

江戸時代に入ると、世の中が平和になり、経済が発展すると共に、砂糖の輸入量が増加したことにより、菓子作りを専門とする店が増えていきます。政治の中心は江戸に移りましたが、菓子文化の中心はまだ京都。京都を中心に、これまでにない上菓子(上等な菓子)が作られ、評判となりました。これらは高価な白砂糖や氷砂糖を使うもので、現在の上生菓子に通じるものです。

茶席の菓子としてより風流なものとなり、文学的な銘をつけたり、四季折々の自然風物を取り入れたりするようになりました。現在に続いている菓子屋も誕生するようになります。

ただし、この頃もまだ、このような上菓子を口にすることができたのは、上流階級の人々のみ。庶民は街中で餅や団子などを口にしており、これらに使われる砂糖は主に黒砂糖でした。

菓子の世界に大きな影響を与えたのは、享保年間に第8代将軍徳川吉宗が行った、砂糖黍の国内栽培と精糖の奨励です。また、これと併せて、海外からの砂糖の輸入量もさらに増え、18世紀後期には砂糖は入手しやすいものになっていきます。

そのような背景もあり、18世紀後半には、和菓子の発展は極みに達します。江戸でも菓子文化がようやく成熟期を迎え、京菓子に対してより庶民的な菓子を愛する、江戸特有の菓子文化として花開きます。この時期の文献を見ると、私たちに馴染のある和菓子の名前がいくつも並んでいます。

京、江戸、地方にかかわらず、現在と同じような製法で作られた和菓子が数多く存在し、和菓子の技術は現在に近いレベルであったといえます。

 

6. 明治以降~洋菓子が入ってきて~

明治時代になり、西洋文化が入ってくる中で、洋菓子も憧れをもって迎えられました。しかし実際は、洋菓子は高級で一部の上流階級の人しか口にできなかったこと、当時の日本人はバターやミルクなどの動物性の素材になじみがなかったことから、急激に広まるということはありませんでした。洋菓子が広く世の中に広まるのは、戦後もしばらく経ってからのことです。

洋菓子の登場にもかかわらず、日本人にとっての不動の立ち位置にあり続けた和菓子ですが、戦時中には砂糖が公定価格制により統制されることとなり、休業・廃業に追い込まれる店が相次ぐなど、苦難の時代が訪れます。戦後、和菓子業界が活気を取り戻すのは、1952年に砂糖の統制が撤廃されてから。

昭和30年代になると、菓子の世界でも機械が使われるようになり、和菓子、洋菓子共に大量生産の時代に入ります。そして、洋菓子が人々の間に広まるにしたがい、菓子において和菓子の占める割合が小さくなっていきました。

しかし、近年では、洋菓子の要素を取り入れて、クリームやバターを使った和菓子も登場し、人気を集めています。パイまんじゅう、抹茶ババロアなど、和洋折衷のお菓子をあげようとすれば、数えきれないことでしょう。

また、健康志向の中で、植物性の材料で作られ、カロリーも比較的低い和菓子は、見直されるようになりました。

 

歴史を学ぶと奥深い和菓子

その長い歴史の中で、近世になるまで、一部の人のみが口にすることのできた和菓子。歴史を知ると、和菓子を誰もが口にできる現在がとても幸せな時代だと感じられることでしょう。

また、その後に開国や文明開化という大きな時代の変化があったにもかかわらず、江戸時代後期には、現在に見られる技術や文化が確立していたという事実には驚かされます。和菓子の種類や製法を知るのもとても楽しいことですが、歴史を学ぶことで、このように興味深い事実に出会うことができます。

ここでの話は、和菓子の歴史を本当に簡単にかいつまんだもの。より深く知りたいと思った方は、是非書籍などで学んでみてください。

 

〈参考文献〉
・岩波書店「事典 和菓子の世界 増補改訂版」中山圭子
・東京書籍「和菓子 夢のかたち」中山圭子
・新星出版社「和菓子と日本茶の教科書」新星出版社編集部

 

茶道のお洋服のご紹介

■和洋兼用 3WAYレインコート ネイビー

MELETYオリジナルブランド第三弾です。今回は着物にも日常使いにも着られるレインコート♡
ネイビーでまとめながらさりげなく裏地は高級感+スタイリッシュなデザインを使用。

おしゃれかわいいレインコートをぜひご購入してみてはいかがでしょうか?

 
レインコートの詳細はこちら!

■サテン テロンチワンピース グレー

MELETYブランドで販売するてロンチワンピースです。ダブルボタンやチェスター襟などで、上品に仕上げました。生地がしっかりしてるので、春秋用のワンピース兼テロンチコートでお使いいただけます。

大人可愛い+トレンドを取り入れ、形も若く、羽織ってもトレンチっぽくてかっこよく着れます。

 
ワンピースの詳細はこちら!