生け花を習い始めるとき、その教室に流派があることに気づくかと思います。代表的な生け花の3つの流派として、池坊、小原流、草月流があげられます。この3つの流派、実はそれぞれ生まれた時代も違います。
日本の伝統文化である生け花。その文化はいつ誰がはじめたのか。3大流派である池坊、小原流、草月流はいつどのように生まれたのか、そして生け花は西洋から伝えられたフラワーアレンジメントと何が違うのか、生け花の歴史を通してご紹介いたします。
古代
■日本人と植物の関係
カシの木やクスノキなど落葉期がなく1年にわたって葉が生えている常緑樹が多い自然豊かな日本で生活していた古代の人々は、太陽や水をはじめ、植物などにも神様が宿っている、八百万の神がいると信じていました。
またシイやヤバツバキなどの「照葉樹」という厚みのある葉をつける植物も多く、こうした植物の葉が太陽の光を反射しキラキラと光っていたことからも植物に神様がいるという考えに至っていたのかもしれないと言われています。
この感覚は日本人独特の精神性とも言え、例えば西洋では葉が散る落葉樹が身の回りにある植物として一般的であったことから、常に傍にいて見守られているようなものではなく、どちらかというと物等に近い視点で見ていました。
奈良時代
■仏教の伝来と供花の誕生
奈良時代、中国から仏教が伝えられた際に「供花(クゲ)」という仏像に花を飾るという考えも日本に伝えられました。この供花という習慣は現在でも葬儀や告別式に花を供える、お別れの花のことを指しています。
当時の供花の意味は現在よりも幅広く捉えられていました。例えば『鳥獣戯画』の中で描かれている猿の僧侶とカエルの仏様の絵図は当時の供花を表しています。カエルの前には蓮の花が供えられています。これが供花です。もともと供花という概念はインドで生まれ、インドでは蓮の花が供えられていました。この考えは中国や日本に伝えられた際に花の種類は問わないというように変わっていきました。またカエルの背後には芭蕉というバナナのような植物の葉が光背として描かれています。
今後この供花という文化に、やがて日本人が古来から持つ「神が宿っている」という考えが合わさって徐々に生け花の形となっていきます。
平安~鎌倉
■花や植物を鑑賞する人々
さて神様にお供えする目的以外にも日本で花が生けられた歴史は古くからあり、例えば平安時代に書かれた『枕草子』からも花を屋外の花瓶に挿し眺めていたことが記されています。
鎌倉時代にかけては公家の間で「歌合わせ」のような遊戯として「花合わせ」「前栽合わせ」という、庭の植物を鉢植えに再現する遊びが行われました。こうした小さな籠やお皿などの器の中に植物を並べたり、砂を使ったりしていた事が後の生け花のルーツとなっていきます。
室町時代
■生け花の誕生
鎌倉時代に入り、中国から絵画や器が日本に輸入されるようになり、そうした物を「珍しい」と扱われるようになりました。また、武家の住宅の様式、書院造という襖や障子で室内を仕切る家の作りが誕生しました。この2つの理由から、生け花はさらに発展をしていきます。
書院造では仏画を飾る場所が定まるようになり、仏画の前に押し板を敷き、香炉、供花、灯明(蝋燭台)を置き、その場所には一種の結界が張られていると考えられました。
そうした風習が定着していく中、1462年京都の六角堂の僧侶 池坊専慶が武士に招かれて生けたお花がたいへん評判になりました。「仏前に飾るなど従来の枠を超えるもの」という仏様の前に飾るためのお花以上の神掛かった作品であると人々は感動し、このことが日本の「生け花」という文化の誕生、「池坊」という流派が生まれるきっかけとなりました。
江戸時代
■様々な流派の誕生
生け花は江戸時代にかけて様々な形・生け方が成立し、複数の伝書が書かれるようになりました。また、同時に室町時代から始まった茶花の文化が、江戸時代になって庶民の間にも広がったり、園芸においても植物の新種を作り、菊も年中出回ることが出来るようになるなど、生け花や植物を取り巻く環境はとても盛んなものでありました。
例えば、千葉龍トが浅草門前の茶店扇屋で花会を催し、大変な評判になったことがきっかけで「源氏流」という、現在では幻になった流派が生まれ、当時は広まっ他歴史があります。他にも花伝所のパロディが登場するなど、幅広く生け花は江戸時代の町の人々に楽しまれていたことが分かります。
近代
■西洋の影響
明治時代に入り、東京における生け花文化は衰退を迎えます。明治10年から20年代にかけては形にとらわれない文人花と、格のある技巧的な生け花の遠州派に分かれました。そうした中、文人花の動きの中に西洋文化であるフラワーアレンジメントのような花の生け方に影響を受け新しい自然観を持つようになりました。逆に日本の生け花は海外にも伝えられるようになり、当時のフラワーアレンジメント文化に影響を与え海外でも評価されました。
明治40年ころになると日本の西洋化に伴い、これまでになかったような植物が輸入されてきます。そして明治41年には日本で最初のブーケの解説書が販売され、当時は「西洋のフラワーデコレーション」と呼ばれる花の飾り方が生け花にも影響を与えていきました。池坊では西洋化に伴い「盛花」「投入」という生け方が誕生しました。また明治43年、大阪にて花会を行った際、小原雲心が「小原式国風盛花」として独立し始まったのが日本の生け花三大流派の2つ目、小原流です。
昭和以降
■形にとらわれない生け方の誕生と3つ目の三大流派
昭和に入り、「自由花」という型が決まっていない花の生け方が誕生しました。そうした中で芸術性に富み、豊かな表現をする草月流が誕生しました。草月流は池坊、小原流に続き現在の生け花3大流派と呼ばれています。
現代
現在生け花の流派は小さな流派を含めると100以上、一説によると1000以上存在していると言われています。
また現在お花関連の習い事として、生け花と並んで人気なのがフラワーアレンジメントです。西洋ではもともと古代ローマ時代には自宅でお花を飾る文化がありましたが、フラワーアレンジメントの誕生はルネサンス時代のイタリアでした。フラワーアレンジメントは元々家の装飾という目的で花を飾る目的であることから、日本における植物を尊びまた神様にお供えするようなお花とはまったく違う文化であることが分かります。
いかがでしたでしょうか。生け花の歴史をおおまかにご紹介しましたが、改めて日本における生け花文化の奥深さ、意味の存在を実感していただけましたら幸いです。
「生け花は難しい」と実際に生けてみると思われる事のほうが多くありますが、その背景には日本人のもつ「植物にも神様がいる」という考え、また様式によっては仏様のために生けるという意識があることを知ると、少しだけ花を生ける事がワクワクして頂けたら良いなと思います。