茶道の歴史を辿る 〜お茶と千利休〜

茶道の歴史を辿る 〜お茶と千利休〜
2020年12月15日 白玉椿
In 芸術/文化

茶道に関心を持つと、茶道がどのように成立し現在にいたったのかを知りたくなるのではないでしょうか。茶道といえば千利休の印象がとても強いため、利休が茶道を始めたのだろうと想像する方が多いようです。

もちろん、利休は現在につながる茶道(わび茶)の成立に大きく貢献しました。しかし、決して利休が一人で始めたものでも、利休の形だけが現在に続いているものでもありません。茶道の奥深い歴史を学んでみましょう。

 

  • 目次
  • そもそも「茶道」とは?
  • お茶の歴史を辿る
  • 茶道「わび茶」の起源
  • 千利休の登場
  • 織田信長、豊臣秀吉と茶道
  • 現在に繋がる流派が数多く生まれた、江戸時代の茶道
  • 近代の茶道の発展
  • まだまだ深い!茶道の歴史

 

そもそも「茶道」とは?

そもそも、「茶道」とは何でしょうか。言葉からすれば、単に茶を味わうための方法を極めようとする道のことといえるでしょう。しかし、私たちが現在茶道という言葉から考えるものは、作法や精神性のある茶の道です。このような意味での茶道という言葉が表れるのは、安土桃山時代末期から江戸時代初期の茶に関する文献です。

また、岡倉天心は著書「茶の本」の中で、15世紀になって茶の楽しみ方が、茶道と呼ばれるものへと進んだ、という内容のことを記しています。そこで「茶道」とは、15世紀後半(室町時代後期)以降に展開した、精神性を背景にして一定の作法を伴う、いわゆる「わび茶」の道のことと考えると良いでしょう。

 

お茶の歴史を辿る

■喫茶のルーツ

茶の木の原産地は、インドのアッサム地方や中国の雲南省、四川省あたりといわれています。紀元前後の中国の記録には、茶が登場し、当時から茶が飲まれていたことが推測されます。その後、唐の時代には大流行し、陸羽という文人が世界で初めての茶書である「茶経(ちゃきょう)」を書いています。この頃の飲み方は、釜に沸かした湯に茶の粉末を入れて、そこから碗に汲んで飲むというものでした。

■古来日本での喫茶

日本で、古くに茶が飲まれていたことがみてとれるのは、聖武天皇の時代の寺院での行事です。甘葛(あまづら)や生姜を入れた茶が飲まれていたとの記録があります。平安時代になると、嵯峨天皇に関する記録に茶が多く登場し、茶を好んでいたことがうかがえます。この頃の飲み方は、団子状に固めた茶葉を砕いて湯に入れる、団茶だったと考えられています。

■栄西が広めた「抹茶法」

臨済宗の開祖となった栄西は、茶の粉末を湯の中にいれてかき混ぜる抹茶法を伝えたとされています。

日本で抹茶を飲むようになった鎌倉時代に、栄西は鎌倉幕府の三代将軍・源実朝に薬として飲ませた、という記録が残っています。栄西は、日本で最初の茶書といわれる「喫茶養生記」(受験でも必須の知識!)を書き、茶は長寿の薬であると説いています。なお、栄西が茶を薬として飲ませた源実朝の不調は、実は病ではなく二日酔いだったと考えられています。

■武家への流行

室町時代に入ると、武士たちが中国から輸入された器類を、茶碗、茶入、花入などに使い、屋敷内の会所(かいしょ)と呼ばれるプライベートな空間に飾り、茶を飲むことを楽しみました。これら、中国伝来の道具を唐物(からもの)と呼びます。なお、唐物とは唐の時代のものに限らず、宋や元、明の時代のものも含みます。

室町将軍家も、三代義満から八代義政にわたり日明貿易で唐物を集めました。これらはその後幕府の失権により市中へ流出してしまいますが、義政が隠居のために建築した東山の御所にちなんで、「東山御物(ひがしやまごもつ、ひがしやまぎょぶつ)」と呼ばれています。

↓以下は収集した美術品のうちの一つ、重要文化財《玳被盞 鸞天目》(たいひさん らんてんもく)です。

また、抹茶を飲み比べて産地を当てる「闘茶(とうちゃ)」というゲームが流行しました。京都栂尾(とがのお)産の茶を本茶、それ以外の産地の茶を非茶として飲み当てる、などの遊び方です。この闘茶は武士から貴族、一部の裕福な庶民にも流行し、賞品として唐物茶道具や刀剣、砂金などが出されることもあったようです。

 

茶道「わび茶」の起源

■わび茶を始めたといわれる〜珠光〜

左が村田珠光

現在の茶道に通じる、精神性を前面に押し出した茶、いわゆるわび茶を始めたといわれるのは、珠光(しゅこう、じゅこう。村田珠光とも)です。珠光については史料が少なく、不明なところが多い人物ですが、茶には「冷え枯れる」精神が必要であると考え、唐物茶道具だけでなく、日本の和物茶道具を合わせて一体となった茶を行うべきとしていました。

見栄えのする唐物茶道具を華やかに飾り立てるのではなく、素朴な風合いのある茶道具を好んだようです。珠光の言葉として「月も雲間のなきはいやにて候」(雲一つない月空は好きではない)というものがあります。

素朴なもの、不完全なものに美を見いだす珠光の精神がよく分かる言葉です。

■わび茶をさらに進めた〜武野紹鷗〜

右が武野紹鷗

珠光が始めたわび茶をさらに進めたのは、堺の商人から茶人となった武野紹鷗(たけのじょうおう)です。紹鷗は、珠光が没した頃に生誕しており、2人の間に師弟関係はありませんが、珠光の始めたわび茶の精神を良しとしました。

そして、格調高く由緒正しい唐物茶道具を大切にしながらも、紹鷗袋棚と呼ばれる棚、竹の蓋置など新たな茶道具を作り出しました。紹鷗の茶道は千利休をはじめとする弟子たちに承継されていったため、紹鷗が茶道を成立させたと考えることができます。

 

千利休の登場

堺の商人であった千利休は、武野紹鷗に師事し、わび茶の精神を学びます。上洛した織田信長に仕え茶頭となり、信長亡き後は豊臣秀吉の茶頭となります。元は千宗易(せんそうえき)の名であり、利休というのは居士号、つまり仏門での称号です。

利休は、茶道を「わび」の精神に徹した、より簡素・簡略なものとしていきます。茶室は、四畳半程度が大半であったところ、二畳の茶室を作り出しました。広さのみならず、身体を小さくして入る躙り口(にりじぐち)や、隅を壁土で塗り込める室床(むろとこ)などの新しい茶室の造りを考案します。また、竹製の茶杓、長次郎に作らせた黒楽茶碗など、新たな道具も使い始めました。

いずれも、飾りを削ぎ落とした簡素ものです。これらの利休が考案した茶室の造りや茶道はいずれも、茶道の精神を象徴するものとされ、現在の茶道に続いています。

武野紹鷗が茶道、わび茶を成立させた、といういわれ方をするのに対し、利休はこれを大成させたといえるでしょう。

 

織田信長、豊臣秀吉と茶道

■信長と茶道

織田信長の絵。絵柄の違いで見た目の印象が変わります

茶道の世界に惹かれた結果だったのか、それとも天下取りのための戦略の一つであったのか、織田信長は茶道を政治に効果的に利用しました。足利義昭を伴って上洛すると、制圧した畿内から名物茶道具を強制的に買い取る「名物狩り」を行いました。これらの道具は茶会で使われ、信長の力を誇示するとともに、自らともてなす相手である客の間の支配関係を強めることになりました。

功績のあった武将には名物茶道具を褒美として与える、茶会を行うには信長の許可が必要とするなどしたことも、茶道の政治への利用といえます。

また、茶道に通じた堺の商人を茶会に仕えさせました。中でも、今井宗久、津田宗及、千宗易(後の千利休)の3人は、のちに天下三宗匠と呼ばれるようになります。

左が今井宗久

■天下人秀吉と茶道

本能寺の変後、山崎の合戦などを経て信長の後継者となった秀吉は、歴史に残る大きな茶会を開催します。それまでの茶会と異なり大人数を招いた大徳寺大茶の湯、天皇や公家を客に迎え御所で行った禁中茶会、北野神社に黄金の茶室を据えた北の大茶の湯です。これらの茶会も、秀吉の天下人としての地位、権力そして財力を誇示する目的があったと考えられています。

秀吉と千利休の関係も、よく知られるところです。利休は、単に茶頭として茶会の取り仕切りなどを行うにとどまらず、政権内部での立場も確立していきました。その後、秀吉は利休に切腹を命じることとなりますが、その原因は諸説いわれています。

 

現在に繋がる流派が数多く生まれた、江戸時代の茶道

■江戸時代初期

江戸時代に入ると、利休の弟子やさらにその弟子といった、茶道を身につけた人物たちが、それぞれ自分好みの趣向をこらすようになっていきます。その中には、古田織部、細川三斎、蒲生氏郷、小堀遠州など、武士としての力と権威を持った人物も多く見られます。現在に繋がる流派が数多く生まれました。

千利休を祖とする千家では、利休の孫・宗旦が、自身の3人の息子を名門の大名家に仕えさせました。後ろ盾を得たこの3人はその後それぞれの家を立てます。これが、三男・宗左の表千家、四男・宗室の裏千家、次男・宗守の武者小路千家の、いわゆる三千家です。現在も利休の茶道を伝えています。

■江戸時代中期以降

江戸時代の中期から後期には、さらに茶道は広まります。裕福な商人が台頭するようになり、これら豪商の間にも茶道が流行することで、武家以外の層にも茶道が広まりました。そして、泰平の世の中で茶道は成熟していき、流派によっては新たな作法が制定されたり、茶道の精神や茶道具についての書物が多く書かれたりしました。千家十職と呼ばれる、千家の茶道具を専門に制作する作家の家が揃うのもこの頃です。

江戸時代末期では、歴史上は安政の大獄の印象が強い大老・井伊直弼が、茶人として高く評価される人物であったことは、興味深いものです。多くの茶会記の他、「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」という茶道の大著を記しており、この中では、「一期一会」「独坐観念」などの茶道の精神について述べています。

 

近代の茶道の発展

明治時代に入ると、茶道は大名という大きな後ろ盾を失います。代わりに登場するのが、政府の高官や経済人です。元勲・井上馨、三井財閥で才覚を表した実業家・益田鈍翁(ますだどんおう・どんのう)、現在の東武鉄道の基礎を築いた鉄道王・根津青山(ねづせいざん)、製糸貿易で財をなし横浜に三渓園を設けた原三渓らが一例です。彼らは、幕府や武家社会の崩壊により世に流れ出た名物茶道具の収集にも熱心でした。集められた茶道具を各自の美術館に収める者も多く、現在でも私たちが見ることができる名物が多くあります。

また、それまでは男性のものとされていた茶道は、女学校の科目に取り入れられることにより、女性も学ぶものとなっていきます。
昭和に入ると、各地で、寺社での献茶、大規模な茶会が広く行われるようになり、庶民にも茶道が身近なものとなりました。長く特権階級的な身分の間のものであった茶道が、この頃から大衆のものとなり、戦中戦後には苦難の時代を経るものの、現在にいたります。

 

まだまだ深い!茶道の歴史

いかがでしたか?ざっと駆け足になりましたが、茶道の歴史について解説しました。
これらを念頭に、茶道に触れると、その長い歴史と由緒正しき礼儀や作法がどれほど重要かが認識できると思います。
皆さんも歴史について他に本など読んでみてください!